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府中TM歩こう会
番外編

我が人生(満79歳8ヶ月)最高の記念碑
『 富士山頂に立つ」の記』

2012.08.01(水)~03(金)

(記) 柴田 弘道(S31・二法) 

小生は湘南鵠沼に生を受け、戦時疎開で父の郷里奈良県の小学校5年生に疎開するまでの幼少期をそこで過ごしました。江の島越しに富士の霊峰を仰ぐ毎日でした。戦後東京に戻り、60歳を契機に自主退職した時にこれからの第二の人生を思い、一番大切なのは自らの健康維持と考え、今日までの20年間1日1万歩を目標に励んできました。一方、人生経験豊富な人格識見ともに優れた校友諸氏から少しでも学ばせてもらおうと思い、母校早稲田の校友会に加入させて頂きました。そこで出会ったのが「歩こう会」でした。すぐに参加させてもらい山登りの初歩から教えて頂きました。一昨年八月に、七十七歳いわゆる喜寿の記念として、世界で最も美しいと言われる均整のとれた見事な山容と、日本で一番高い山「富士山」に登りたいという幼少期からの念願を「歩こう会」の本田先生に打ち明けたところ快諾下さり、参加メンバーを募って実行致しました。ところが折り悪く、太平洋上を発達して進行中の台風の余波を受け、七合目風雨強まり、涙をのんで下山を余儀なくされました。

昨年は東北大震災とその影響か、富士山周辺での地震や地下水脈の異変などが報じられた事もあり自制致しました。ところが逆に、今登らなければ富士が噴火しその山容が崩壊したり、日本一の3776メートルの高さが失われるような事にでもなれば悔いを残すとの思いと、小生の年齢から体力の限界も近いとの思いから、今年の夏にリベンジを致しました。ちょうど年齢も八十歳(満年齢79歳8ヶ月)のメモリアルとなりますので、去る8月1、2、3日の三日をかけて、念願の富士登山をしてきました。

大月-河口湖間の車内にて

8月2日  大月-河口湖間の車内にて
(右より、本田勝先生、筆者(柴田)、竹居義男さん、大野正道さん)
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今回もリーダは元大学教授であり山岳登山の専門家として、文字通り小生の山の先生でもある本田勝先生。早稲田大学探検部出身の逞しい大野正道さん。富士登山3回目のベテラン竹居義男さんと、素人の小生をサポートしてくれるに相応しい心強いパーティを組んでくれました。残念ながら前回七合目までご一緒したスポーツ万能の森島清さんは都合が付かず参加出来ませんでした。

8月1日に富士急登山電車で河口湖駅前のホテルに夕方投宿、翌8月2日早朝7時駅前からタクシーで五合目(標高2300m)に8時頃到着しました。

河口湖駅にて、目指す富士山を背に

8月2日  河口湖駅にて、目指す富士山を背に
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五合目を8時半出発、約20キロのリュックサックを背負っての本格的な登山です。小生の後ろを経験豊富な本田先生がついてくださり、終始的確な指示とアドバイスを送ってくれたり(歩幅は小さく、段差の低いところを選べ等など)、随時小生の体調にあわせて小休止をセットしてくれたお陰で、七合目(標高2700m)まで登ったのですが(ここまでは一昨年に登ったところでもあり)それ程の困難もなく2時間半程で到着しました。

しかし本当の富士登山はここからでした。本八合目の宿泊予約の山小屋(標高3400m)まではまさに急峻な岩場の連続で、張られたクサリを頼りに、またある時は両手で岩を掴み足場を確保しながらの難行苦行の連続でした。昼頃に標高3000m地点に到達、小休止を兼ねて簡単な昼食弁当を食して其処からまた、岩場を登り続けて4時頃に目的の山小屋に到着しました。五合目を出発してから標高差1100mを約7時間半要したことになります。手持ちの酸素ボンベも半分ほど消費しました。これは初心者の小生の体力に合わせてくれた結果であり、先導のお二人は30分程早く山小屋に到着していました。簡単な山小屋のハンバーグカレー弁当の夕食後はともかく明日早朝の出発に備えて、体力の回復と睡眠のために蚕棚に四人それぞれのシュラフに包まって寝るしかありません。しかしとてもじゃありませんが外はまだ明るく、いつも夜の遅い生活習慣からも寝られたもんではありませんでした。

寝付かれぬまま外に出て観たパノラマは、まさに絶景かな絶景かな!でした。西に沈む太陽の夕焼け雲と東から登り始めた満月の白い光のコントラストの見事さは、人生初体験として終世忘れることはありません。地上はさしづめ「菜の花や   月は東に   日は西へ」でしょうか?  ともかく微睡むていどの時を過ごし、0時に起床して冬支度に着替え、8月3日午前1時にヘッドランプの光を頼りに山小屋を後にしました。

途中で見上げる山頂の標高3776mまで勿論、見下ろすたどって来た山小屋からの登山道もまさに「鞍馬の火祭り」か「蟻の熊野詣で」を彷彿させるようなヘッドランプの光の行列でした。相変わらずの嶮しい岩場の連続なのですが、小生にとっては八合目までの苦しさに比べると心なしか楽に感じられたのが不思議です。しかもほとんどリュックサックの重さも感じませんでした。今思い返しても不思議な気持ちです。酸素ボンベは使い果たしました。

とうとう午前4時前頃に、富士山の頂上に自らの二本足で立つことが出来ました。すでに「ご来光」を拝む大勢の人が場所取りを始めていました。幸い我がベテランのリーダーが素晴らしいビューポイントを確保してくれ、あとは4時半ごろとされている日の出を待つばかりです。疲れは微塵も感じませんでしたし、寒さもリーダーの指示に従った冬支度のためさほど感じませんでした。神秘的な神々しいまでの日の出が薄くかかった雲間からそれと判るのに時間がかかりましたが、まさにこれぞ「ご来光!」登ってきた甲斐がありました。

富士山山頂、ヤッター!!

8月3日  富士山山頂、ヤッター!!
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刻々と変わる朝焼けの雲の色、オレンジ色の産まれたての太陽の煌めき、やがて天空が夜から朝へと移動して行く様は、太陽が月に取って代わり地球の主役に躍り出る壮大な天体ショーです。しかもスローモーションによる!
小生の拙い表現力ではこれ以上何とも「曰く言い難し」です。どうかご自由にご想像下さい。

夢にまで見た御来光を眺める

8月3日  夢にまで見た御来光を眺める
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そのあとは噴火口を半周して自然の力の凄さに感動し、その造形の妙に、日本一の高さから見下ろすパノラマにと、まさに天下を睥睨するという感じに興奮しきりでした。飛行機から見る下界と違い、ここに立った者にしか見ることの出来ない臨場感あふれる景観でした。

目的達成感と満足感のため、小生は八十年の自分史の記念すべき日の感慨に浸りきったひと時でした。

下山もまた登山より厳しく長い長いだらだら坂で、しかも噴石による砂礫上をひたすら足を踏ん張って下るより他ありません。しかし小休止の時々に見上げる山頂、見下ろす下界の景観もまた十分に疲れを癒してくれました。登りのように手にする鎖もなければ足を確保する岩場もありません。疲れてきた足腰のため踏ん張りが効かず数度にわたり尻餅をつきながら、それでも落伍することもなくお昼頃無事五合目まで下山した次第です。

無事下山 5合目にて

8月3日  無事下山  5合目にて
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お土産は赤富士と言われる元となる暗赤色に近い溶岩片1個(手の平サイズ)と二の腕に残った純粋な?紫外線によるやけどに等しいような日焼けでした。
しかし「天もまた吾に味方せり」でしょうか、登山開始から下山完了まで晴天に恵まれたことを感謝しました。
という訳でこれからは小生にとって「富士山」は親しみを込めて「富士さん」となりました。
最後に初登頂を成就させてくださった同行のお三方の友情に心から御礼申し上げる次第です。


たまたま帰宅後手にした新聞紙上でロンドンオリンピック=フェシング=太田雄貴選手が団体銀メダルを授賞したときのコメントが目に入りました。
「頂上に上がらないと見えない景色がある。北島康介さんはぼくが見ていない景色をいっぱい見て来ただろう。だから人は上に行きたがる!」

小生にとっても望遠では想像出来なかった景色が、富士の高嶺に立って180度の眺望を満喫したとき、やはり上がってみなければ見えない景色があるとの思いひとしおでした。


八十路夏 富士山頂の ご来光


参加者:  計4名
本田勝さん(S40理工)、竹居義男さん(S35教育)、
大野正道さん(S40理工)、柴田弘道さん(S31法)


 

 
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